neuertag’s blog

映画、音楽、哲学、アイドル文化を中心に思うところを綴っていきます。

反抗と自由、未来への憧れ ~欅坂46~

80年代、南野陽子に代表される正統派お嬢様アイドルに惹かれていた私にとって、「おニャン子クラブ」の登場は、ある意味衝撃であった。普通のルックスとパフォーマンスの稚拙さに違和感を覚えたものである。近年のAKB48の出現も、継続して正統派を追い求めてきた私にとっては同じであった。乃木坂46の出現は、ビジュアル面と音楽性において、正統派をもとめる私の興味を惹くものであった。でも何かが足りなかった。

そんな折、欅坂46が登場した。登場した当時、デビューシングルのタイトル「サイレントマジョリティー」に興味は沸いたものの、仕事の忙しさもあり注目しないままに今日に至った。だが、Youtubeで「二人セゾン」の動画を見たとき、私は一瞬にして捕らえられた。そこに私が見たのは完成度の高い音楽と映像の融合であり、センターの放つ強烈なカリスマであった。

音楽性について言えば、決して媚びておらず本物志向の聴衆をうならせる質の高さがある。映像は音楽とシンクロして効果的に音楽世界を可視化しており、どの画面を取り出しても感動を誘う映像となるよう計算されている。私が足りないと感じていたもの、それは質の高い音楽と映像、そして何よりもそれを表現するパフォーマーのカリスマであった。

私は早速、これまでの3曲のMVを繰り返し見てみた。「サイレントマジョリティー」では、アイドルらしからぬ反抗と自由をテーマに転調を含む難しい曲調で攻めている。中森明菜の「少女A」以来の衝撃である。冒頭のアコースティックな響きと東京湾を背景に自転車で疾走する場面は、見るものに強烈に訴えかけてくる。渋谷の夜の再開発工事現場でのパフォーマンスも、都会の無機的な孤独を彷彿とさせる背景で淡々と踊る彼女たちが印象的だ。特にセンターの平手友梨奈のカリスマは半端ない。

「世界には愛しかない」では、詩の朗読と音楽と映像のシンクロという面白い実験が試されている。学校の校舎や夕暮れの空や広い草原の風車は、詩の内容さらには音楽と融合して、青春の切なさと孤独と憧れに満ちた世界観を実現している。

「二人セゾン」では、都会の無機的な空間(オフィスビルを背景としたコンクリートの舞台)の上で、バレエを基調とした振り付けのパフォーマンスが繰り広げられる。私が特に印象的に感じたシーンが幾つかある。冒頭から少しして、陸橋を渡る二人が青空を背景に踊りながらジャンプしてカバンを放り上げるシーン、曲の真ん中あたりでセンターの平手友里奈が激しく舞うシーンと夕暮れの東京湾を背景に疾走するシーン、そして最後のほうでメンバーが身を寄せ合って手を空に差し伸べていくシーンなどだ。

「花のない桜を見上げて、満開の日を想ったことはあったか?」

この詩は、見るもの聴くもの(私も含めて)の涙を誘う。

欅坂の歌詞では、一人称が「僕」なのも気に入っている。彼女たちが「僕」と叫ぶとき、誰にも媚びない反抗と、自由に怯えない勇気と、若さから発せられる力強さと健気さが伝わってくるのだ。また、衣装もモノトーンが基調で制服の用に統一感があるのもよい。だからこそ却って一人ひとりの個性が際立つのだ。

聴衆に媚びず本物の音楽と映像を発信していくかぎり、欅坂46は私にとって(私と同様に本物を志向する人たちにとって)正統派アイドルで在り続けるだろうと思うし、そうであることを期待している。

 

ニーチェ哲学の音楽表現 ~マーラー、リヒャルト・シュトラウス~

今回は、哲学と音楽との接点について紹介する。19世紀末のドイツの哲学者ニーチェは20世紀の哲学・文学に大きな影響を及ぼした。哲学ではハイデガードゥルーズ、文学ではトーマス・マン、ヘッセ、カミュなどがそうだ。しかし、それに先駆けて同時代の音楽家にも多大な影響を及ぼしていた。オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーとドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスである。

マーラーは、その交響曲3番の第4楽章のアルト独唱において、ニーチェの著作 "ツァラトゥストラかく語りき"(原題:Also sprach Zarathustra)第4部に現れる詩を歌詞として採用している。この詩は、"おお、人間よ!"という人類に対する呼びかけから始まり、ニーチェ哲学の根幹をなす永劫回帰の思想を、深い眠りから目覚めた"真夜中"が語り始めるという内容である。静かではあるが重厚で力強い響きを湛えたドイツ語で書かれたこの詩は、ドイツ語で歌ってこそ、その深みを味わうことができる。以下にドイツ語の詩を紹介する。

O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief—,
Aus tiefem Traum bin ich erwacht:—
Die Welt ist tief,
Und tiefer als der Tag gedacht.
Tief ist ihr Weh—,
Lust—tiefer noch als Herzeleid:
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit—,
—will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

 ※英訳は以下のWikipediaのページを参照されたい。
Zarathustra's roundelay - Wikipedia, the free encyclopedia

私は、高校生から大学生にかけてこの著作を読んだのだが、手塚富雄氏の日本語訳ではものたりず、大学の中央図書館でドイツ語の原著を探してきて音読した思い出がある。ちょうど、その頃、日本はバブル期の最中で第2次マーラーブームが起きていた。NHKのFM放送ではマーラー交響曲が紹介され、エリアフ・インバルジュゼッペ・シノーポリなど当時の新進気鋭の指揮者たちによる来日公演でもマーラーは演目としてよく取り上げられていた。

マーラー交響曲は長大で一曲が優に1時間を超える曲が大半である。そんな交響曲の中でも私にとって印象深いのが交響曲3番である。この第4楽章のオーケストラ伴奏付のアルト独唱で、先の詩がそのまま曲をつけて歌われているのだ。この部分はルキノ・ビスコンティ監督による映画"ベニスに死す"のラスト近くでも使われている。※ちなみに、この映画では同じくマーラー交響曲5番のアダージェットの引用が有名である。

ニーチェ自身、音楽への造詣も深くワグネリアンであったことは周知の事実である。19世紀末の不安と20世紀への予感を秘めたニーチェの詩は、同じく20世紀の先駆を走っていたマーラーにも共感を与え、あの神秘的かつ謎めいた雰囲気を湛えたアルト独唱を作曲せしめたのではなかろうか。私は聞き返すたびに永遠の時間がこの刹那に凝縮されたような濃密な感覚を覚える。文学の音楽による表現というよりは、文学と音楽が混然一体となったカオスから必然的に生まれてきたといっても過言ではない。それほど、ニーチェの詩に対するマーラーの曲が私にはしっくりくるのである。

マーラーによるニーチェの表現が感性あるいは魂に訴えかける表現である一方、リヒャルト・シュトラウスによるニーチェの解釈と表現は、知性に訴えかける表現であるといえる。彼の場合、ニーチェの引用というよりは、先の著作 "ツァラトゥストラかく語りき"を同名の交響詩に作り上げてしまった。文字通り文学から音楽への翻訳である。その印象的な冒頭部は、トランペットのC音からG音をへて1オクターブ上のC音へと上昇していく音階で始まる。これは、自然(C音)と人間(G音)との対立を表しているらしい。

この導入部がスタンリー・キューブリックの映画"2001年宇宙の旅"(1968年)の冒頭部とラストで使用されて以来、テレビなどでも頻繁に引用されている。映画を介してこの曲の知名度が上がったため、"ツァラトゥストラかく語りき"といえばニーチェの著作よりもこの曲を想起する人が多いかもしれない。実際、音楽の重厚かつ意味深な雰囲気と人類の進化をテーマとした映画のストーリーと相まって、映画と音楽をセットにしたニーチェ哲学の一つの表現として、高校生の頃の私は受け入れていた。

ニーチェ自身は芸術の捉え方として、知性に訴えるアポロ的な芸術(文学など)と感性に訴えるデュオニソス的な芸術(音楽、舞踏など)とに分類し、"魂のはらわた"に響く芸術として音楽をより根源的な芸術と考えていた。その意味でマーラーによる表現がニーチェの芸術観に寄り添っていると思える。しかし、リヒャルト・シュトラウスキューブリックのような天才による新たなタイプの創造にインスピレーションを与えていることも事実である。興味のある読者には、以下のyoutube動画などをお勧めする。

ストラヴィンスキーの「火の鳥」 ~10人の指揮者で比べてみた~

昨日はバレンタインデーであったので、私なりにプレゼントを考えてみた。チョコレートではなく音楽の詰め合わせである。それも、私が今一番気に入っている曲を異なる演奏で。というわけで、ストラヴィンスキーのバレエ組曲火の鳥」のフィナーレ部分を、10人の個性的な指揮者が演奏した動画をYoutubeから拾ってきた。指揮者の顔ぶれは以下のとおりである。

1. 小澤征爾
2. クラウディオ・アバド
3. リッカルド・ムーティ
4. グスターボ・ドゥダメル
5. マイケル・ティルソン・トーマス
6. レナード・バーンスタイン
7. ヴァレリーゲルギエフ
8. ユーリ・シモノフ
9. ピエール・ブーレーズ
10. イーゴリ・ストラヴィンスキー

オーケストラについては、動画の説明を参照されたい。

実際、10人分そろえるのは大変であったが、個性的な顔ぶれが出揃ったと満足している。最初の小澤征爾の演奏だが、指揮ぶりからも分かるとおり、全身を大きく使ってダイナミックな演奏となっている。野外の演奏だがベルリンフィルのきらびやかで躍動的な響きが夜空に吸い込まれていくようである。フィナーレの最後に見せる小澤の緊迫した真剣な眼差しはカリスマに満ちている。私自身、気に入っている演奏だ。

2番目は、アバドの90年代の演奏を記録したベルリンフィルのPR動画である。ゆったりとしたテンポで流れるように線を描く指揮棒の動きが、いかにもアバドらしい。それとは対照的に、3番目のムーティの演奏は、優雅さと躍動感を兼ね備えていて生命力が漲る演奏だ。指揮者も当時は髪も黒々としていて、若さと自身に満ち溢れているといった感じだ。その様子は、4番目のドゥダメルの演奏と印象として重なるところが多い。彼はベネゼエラ出身の新進気鋭の若手指揮者で、ここ数年で世界中から注目されてきている。体中から音楽を伝えたいという想いが伝わってくるようだ。

5番目のマイケル・ティルソン・トーマス(略してMMT)は、サンフランシスコを拠点に活動している。彼の気負うところのない軽いノリの指揮ぶりは、知的で洗練されており、とても気に入っている。音もテンポも現代的で都会的な印象を受ける。そんな彼の師匠にあたるのが、6番目のバーンスタインだ。彼は教育者としても熱心で、動画は1969年の"Young people's concerts"というテレビ番組の公開収録である。演奏はニューヨークフィルで、バーンスタイン自身が作曲者ストラヴィンスキーや曲の内容について、青少年向けに分かりやすく解説している。バーンスタインの指揮ぶりは、ハリウッド映画の俳優よろしくアクションがふんだんで、特にフィナーレの最後では、火の鳥が翼を広げるように両腕を大きく振り上げたかと思えば、前方に向けて大きく突き出したりと、見てるだけでも十分楽しめる。当時のバーンスタインは、晩年のように激しくお腹も出ておらず、スマートでリチャード・ギアみたいにかっこよかった。

それで7番目には、アメリカに対抗すべくロシアの指揮者ゲルギエフを持ってきた。彼は、ソビエト崩壊直後のロシアでキーロフ劇場(現マリンスキー劇場)を支えていたことで有名である。彼の指揮は独特で、指揮棒はほとんど使わず手をヒラヒラさせながら微細な表現をしつつも、ダイナミックに腕を振り下ろしたりして、繊細さと豪快さが共存した演奏を実現している。遠目に見ると酔っ払って指揮しているように見えるのは、私だけだろうか。他の動画で一度目にしたのだが、焼き鳥の串のような指揮棒をつまんで指揮していたのを見た覚えもある。

8番目には、同じくロシアの指揮者シモノフを選んだ。彼の指揮は踊ってるように見えることで有名である。踊るようといってもカルロス・クライバーのような華麗な指揮ぶりとは違い、芝居じみてるというか尊大ぶってるような印象を受ける。魔法使いが指揮棒を使ってオーケストラに魔法をかけて意のままに操っているという感じである。その様は、ボリショイサーカスの猛獣使いにも似ている。

そして9番目には、ヨーロッパの知性を代表してフランスの指揮者ブーレーズを選んだ。彼は、最近、惜しまれつつも他界した。現代音楽の作曲家としても有名であり、独自の音楽理論を展開してきた人である。晩年における彼の指揮の特徴は、指揮棒を使わないこと。両手を使って指揮をするのだが、指は真っ直ぐ伸ばして親指以外の4本をピタッとくっ付けて、空間を手刀で切り分けるよう音楽を刻んでいくような印象を受ける。彼の哲学者のような面差しは、演奏中も常に冷静で淡々と音楽の世界が繰り広げられていく。それ故に、指揮者の思い入れよりは、曲自体に込められた音楽の本質がストレートに伝わってくる気がする。彼のマーラーの演奏も他と聴き比べてみると面白い。

最後の10番目は、作曲者であるストラヴィンスキー自身による演奏である。1965年のロンドンにて、ニューヨークフィルと演奏したときの記録である。当時80歳位だろうか、腰も曲がってよぼよぼのおじいさんが杖をたよりに指揮台に上がる。しかし、演奏が始まるや否や厳しい表情に一変し、老人とは思えぬ力強く重厚な演奏を繰り広げるのだ。私は、この動画を見たときに圧倒されてしまった。この老いた芸術家は、自らの魂を「火の鳥」に込めたのだと、そして芸術家の死後もその魂は火の鳥のごとく不死となって行き続けているのだと感慨に浸ったのである。

今回、10人分を詰め合わせにして語った訳だが、ちょっと重かったかもしれない。私自身、もうお腹いっぱいなので、この辺で終わりにしておく。興味のある方は、下に貼ってある動画をお楽しみください。

 

 

凛々しくも美しいヒロイン ~スター・ウォーズの主人公レイの原点~

昨年12月に公開されたスター・ウォーズ/フォースの覚醒、お正月休みに2Dと3Dとで2回観たのだが、期待以上に面白かった。監督のJ・J・エイブラムスは、年齢的にも私と同世代である。今回、スター・ウォーズの製作にあたっては、ジョージ・ルーカスの薦めもあり黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」を観て研究したそうである。今では、広く知られたエピソードだが、ルーカスはスター・ウォーズの着想の幾つかを「隠し砦の三悪人」から借りて来ている。有名なのはロボットの凸凹コンビ、C-3POR2-D2である。この2体のロボットが、「隠し砦の三悪人」の千秋実藤原鎌足の両名優をモデルにしていることは有名だ。他にも、ハリソン・フォードが演じるハン・ソロ三船敏郎と重なる。

ところで「隠し砦の三悪人」には、雪姫という気が強いお姫様が登場する。お姫様といっても袖を切り詰めた上着に、短パンみたいな袴(?)を履いており、長い黒髪もポニーテールに結っている。きりっとした眉毛は釣り上がって目元に力強い表情を与えている。この雪姫こそ、まさに今回のスター・ウォーズのヒロイン、レイそのものだと思ってしまった。

確かに、これまでのスター・ウォーズにもレイア姫やパドメ姫など男勝りのヒロインは登場してきた。しかし、今回のヒロイン、レイは衣装といい表情といい雪姫にぴったりと重なる。演じている女優も、雪姫を演じたのが当時20歳前後の上原美佐、今回のレイを演じるのが23歳のデイジー・リドリーと若い新人が起用されている。ルーカスは、9つのエピソードを構想した当時から、雪姫のような気高くも美しいヒロインのイメージを抱いていたのかもしれない。

ギリシア神話の軍神アテナやジャンヌ・ダルクなど戦う女性の姿には男性の荒々しさでとは対照的に、気高さと神々しさが宿っている。人間の身体美の象徴としての若い女性のしなやかな姿態と、命を生み出す母性の慈愛とが、強靭な精神のもとに統一と調和を保っている。そんな奇跡のような存在として躍動するヒロインの姿に、観てる者は感動せずにはいられない。スター・ウォーズの残り2作で、レイがどんな活躍を見せてくれるのか、今から楽しみで仕方ない。

 

 

走るヒロイン 真野恵里菜 ~疾走する青春~

前の記事で、真野ちゃんこと真野恵里菜のMVについて書いた。実は、真野ちゃんに注目するきっかけになったのが、TV東京で2013年4月から7月にかけて深夜枠で放映されていたドラマ「みんな!エスパーだよ!」である。これは、最近、映画化もされている。このドラマで真野ちゃんはヒロインを演じたのだが、オープニングタイトルで目を引いたのは、監督が園子温だったことである。

今から25年前、私は映画にはまっていた時期があり、雑居ビルの3階にある小劇場に頻繁に通っていた。そんな折に出会ったインディーズの16mm映画が、園子温監督による「自転車吐息」であった。今でも印象深いのは、劇中、園子温が演じる主人公が「俺」と書かれた大きな旗を掲げて商店街を疾走するシーンである。

ドラマを観た方は思い当たるだろうが、第10話のラストで真野ちゃんが、やるせない想いを抱えつつ、「仰げば尊し」を歌いながら商店街を歩くシーンが出てくる。やがて、エンディングロールと主題歌が流れ始めると、真野ちゃんが「私」と書かれた大きな旗を掲げながら商店街を疾走するのである。

※ちなみに映画もTVドラマも舞台は同じ愛知県豊川市園子温の出身地)である。

行き場のない怒りや孤独の感情をどうすることもできず、自分をむき出しにして全力で走ることしかできない遣る瀬なさ。25年前、当時の世紀末の閉塞感とも相まって、私を含む当時の青年たちの多くが「自転車吐息」の走る主人公に共感を覚えたのだと思う。

思い起こせば、当時、「疾走する青春」のテーマは日本に限ったものではなかった。例えば、レオス・カラックス監督も「汚れた血」において、自身の分身たるドニ・ラバンにパリの路地裏を全力疾走させていた。私はというと、そうした疾走する青春映画を観るだけで、自分自身は疾走しそびれてしまっていた。

そして、いつの間にか年を重ね時代は21世紀となり、今は日々の生活に疲れ果てている。仕事に疲れて帰宅した深夜、TVを点けると疾走する真野ちゃんを目の当たりにしたのだ。25年前の苦い想いを抱えた私には、「私」の旗を掲げて全力疾走する真野ちゃんが愛おしくて仕方なく思えたのである。

 

 

団地と川とアイドルのいる風景 ~My Days for You~

最近、映画やTVドラマで注目されつつある「真野ちゃん」こと真野恵里菜が気になり、彼女がハロプロ時代のMVを手当たりしだいに観ている。とりわけ気に入ったのが「My Days for You」だ。ロケ地は、多摩川住宅というマンモス団地である。ここは、特徴的な形の給水塔で知られており、MVにも、中ほどがくびれた細長い杵のような形状の給水塔が現れる。直径が数メートル、高さが数十メートルにも及ぶ巨大なコンクリート製の建造物だ。

MVでは、丈の長いロングドレス風のワンピースに首からカメラをぶら下げた真野ちゃんが、団地の中を被写体をもとめて歩いていくという設定である。先の給水塔は、映像の冒頭から末尾にかけて何回か現れるし、給水塔の他にも、住宅棟、公園の遊具、公園を走り抜ける子供、近くを流れる多摩川の風景なども現れる。

私のような昭和の高度成長期に生まれた世代にとって、団地の風景は子供のころの原風景でありノスタルジーを禁じえない。高層住宅や給水棟といった巨大な建物にかこまれて、小さな彼女がポツンと公園の遊具に座っていたりする。そんな風景を見るとき、自分が少年の頃、恋心を抱いていた転校生の女の子を、団地の公園で偶然に見つけたときのような、切なく淡い想いが甦ってくる。映像の当時の真野ちゃんは、童顔でぽっちゃりして、真っ直ぐな目をしており、「少年の頃の憧れの少女」という印象さながらに、団地という日常風景のなかに自然に溶け込んでいるのだ。

高い青空には白い雲が浮かび、空間全体が透明な光に満ちている。午後のゆったりと流れる時間に寄り添って、彼女の歌声が流れていく。何とも幸福感にみちた時間である。MVの最後のほうでは、彼女が多摩川の岸辺を歩いていくシーンもあるが、光に満ちた空を背景に何か神々しくも清々しい空気を感じさせる。歌詞のなかに「太陽の階段」という言葉が出てくるが、この映像から受ける印象そのものである。

真野ちゃんのような自然体の美少女は、私と同世代の昭和の少年たちにとっては、記憶の中に生き続けている永遠の初恋そのものなのだ。このMVは、昭和の原風景としての団地の空間に、真野ちゃんという現代のアイドル少女を放り込んで、観るものを一気にタイムスリップさせる効果を見事に実現している。彼女の歌う「信じる心に咲く花」とは、昭和の少年たちの心に生き続けている永遠の少女であり、それを体現しているのが真野恵里菜なのである。

 

指揮者の魅力 ~チェリビダッケのブルックナー~

私は、音楽については、もっぱら聞くの専門です。
80年代以来、マーラーブルックナーショスタコービッチなどの交響曲を聞いてきました。

交響曲に欠かせないのが指揮者ですよね。
インターネットが普及する前の80年代、指揮者の指揮ぶりを目にするのは、NHKN響アワーなどのテレビ番組か、実際にコンサートに足を運ぶしかなかったでした。
しかし、今はインターネットの動画サイトを通じて、往年の名指揮者の映像まで目にすることができます。

90年代当時に、私が中古CD屋で見つけて繰り返し聞いていたものに、チェリビダッケシュトゥットガルト放送交響楽団によるブルックナー交響曲8番のCDがありました。当時はまだ、チェリビダッケの生前であり、彼の正式な演奏CDは巷に出回ってなかったと思います。そのCDは、FMラジオを録音した海賊版でした。とはいえ、夜中に徹夜して、チェリビダッケ独特の遅いテンポの重厚な演奏を聴いてると、周りの空気までが澄み渡っていくような感覚を覚えたものです。

やがて、世紀が変わってYouTubeなどが普及してくると、チェリビダッケの生前の指揮ぶりが映像で見られるようになりました。チェリビダッケ以外にもカラヤンバーンスタインなどの映像も見られるので、比較するなどの楽しみ方もできます。

しかし、私にとってはチェリビダッケブルックナーが一番しっくりときます。それは、彼の哲学者のようなしかめっ面な面持ちと、長大で巨大な建築物のような交響曲の内容とが重複していることに拠るのかも知れません。また、曲のクライマックスで演奏に混じって発せられる彼の唸り声の響きも、映像と合わせてみると納得がいきます。これも、聞きようによってはノイズというよりは演奏の一部かも知れませんね。

すでに、彼がなくなって20年近くになりますが、今、改めて指揮者の魅力を映像を通して再認識している昨今です。

 


Bruckner Symphony No 8 Celibidache Münchner ...